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永遠のモダンを庭園に
闇夜につぶてを投げる人・重森三玲みれい

DVD:一般販売価格:10,000円(税別)
個人貸出・館内上映可

DVD:ライブラリー価格:20,000円(税別)
個人貸出・館内上映・団体貸出・館外無償上映可

59分/カラー/ステレオ/重森三玲 著作・作庭目録付/2020年作品
永遠のモダン写真3点01

写真左から「重森三玲」「光明院 波心庭」「松尾大社 上古の庭」

一般社団法人 中日文化研究所

中国文化叢書 第五号

永遠のモダンを庭園にpdf

 日本庭園史研究家、作庭家・重森三玲は1896年(明治29年)岡山県上房郡吉川村に生れた。生家は、自作農とあまり変わらない規模の小地主。趣味人であった祖父や父の影響により三玲は美術面で早熟な少年として育つ。14~5歳でいけばなと茶の湯を習う。18歳にして茶席の建立を思い立つ。四畳半であるが、真・行・草の三つの床を設けた。無謀な企てであったが、これが創作ということにつながっていく。生家は木々を吹き抜ける風の音が強かったところからこの茶席を「天籟庵てんらいあん」と命名する。
 21歳にして日本画家を志し、東京の「日本美術学校」に入学する。その当時我が国には、ヨーロッパからきわめて斬新な美術思想が潮の如く押し寄せていた。三玲は表現派、未来派、超現実主義などに強く影響を受け、彼の芸術活動はつねに前衛と抽象がベースとなった。三玲は芸術活動への熱い想いを実践するため、「文化大学院」を設立する。社会・宗教・美術・恋愛など文化全般を網羅する学塾であったが、肝腎の受講生が集まらなかった。これは生涯最初の「闇夜につぶてを投げた」企てであった。1923年(大正12年)、関東大震災が帝都を襲い、挫折を引きずったまま帰郷する。
 1929年(昭和4年)、京都に居を移す。本格的に、いけばな・茶の湯・庭園の研究を開始するためであった。
 1934年(昭和9年)近畿地方に室戸台風が襲来し、京都をはじめ多くの神社仏閣が甚大な被害を受ける。三玲は破壊された庭園を修復したいと願ったが、元の姿・形をとどめる図面が残されていない。庭園の保存・維持にはきちんとした実測図・写生図・写真等の存在が必須であることを痛感し、新たにそれらを調査・制作するため、国や自治体に支援を要請するが一顧だにされない。そこでやむなく独力で、なんら財政的裏付けもないまま、全国およそ250庭の実測調査を開始する。ここでも闇夜につぶてを投げたのである。しかし、この自らの眼で全国の庭園を具体的に確かめる実測調査体験が血となり肉となって、後の作庭の世界で活かされてくる。
 1939年(昭和14年)、東福寺方丈の東西南北それぞれ四面の空間に庭園を創作し、釈迦の生涯に因む「八相の庭」と命名した。この庭園は質実剛健な鎌倉時代と、東福寺という禅院を背景にしながらも、感覚的に西欧抽象芸術をも包含した斬新且つ独創的な造形であり、この作品によって三玲は日本庭園作家としてデビューを果たした。
 三玲は言う。『日本庭園は単に自然を模倣し移し変えたものではない。それは日本の自然や景観を抽象化して、その美の本質を造形化したもである。これは創造的営為であり、ゆえに芸術と認められる。たとえば枯山水・龍安寺庭園。おそらく室町時代の作と思われるが、現在でもきわめてモダンである。何百年経とうが、優れた芸術作品は斬新な感覚、すなわちモダンさを発揮し続けているのだ』。美の求道者重森三玲は、庭園に永遠のモダンの実現をめざしたのである。
 本映像の監督・脚本は三玲の四男・貝崙ばいろんであり、ほぼ30冊の三玲の日記を読み解き、さらにそれを映像化した。

チラシ画像をクリックするとpdfファイルでご覧いただけます。

永遠のモダン写真3点02

写真左から「龍吟庵」「東福寺八相庭 市松の庭」「龍吟庵 不離の庭」

永遠のモダンリーフレット

重森三玲の著作、共著書、第三者による重森三玲庭園集、そして重森三玲による作庭をまとめた「重森三玲 著作・作庭目録」が封入リーフレットとして付属します。

企画◎一般社団法人 中日文化研究所
制作協力◎岩波映像株式会社/アートギャラリー884
撮影協力◎京都市歴史資料館/重森三玲記念館/吉備中央町/春日大社/東福寺/東福寺塔頭光明院/石清水八幡宮/重森三玲庭園美術館/岸和田市/枚方市/大徳寺塔頭瑞峯院/林昌寺/東福寺塔頭龍吟庵/豊國神社/高野山福智院/松尾大社

【スタッフ】
監督・脚本◎重森貝崙
撮影・編集◎廣瀬充男
整音・選曲◎吉田茂一
CG・イラスト◎藤原久子
語り◎山川建夫